
袖触れあうも他生の縁
先日、出先で時間が空いたので、カフェで本を読むことにしました。
そこで座った席のお隣で、たまたま60~70代と思しき二人の男性が会話されていました。
失礼ながら、ちょっと聞き耳を立ててみると、どうも世界史について語り合われているご様子。
それぐらいなら、まあ歴史好きのお二人なのかなというぐらいなのですが、気になったのはそのレベル。
歴史に全く詳しくない私でも、生半可な歴史好きではないと分かるほどの詳しさでした。
にもかかわらず、私のような人間が聞いても非常に分かりやすい話し方。
マナー違反だとは思うのですが、聞こえてくるお二人の話がずっと気になっていました。
1時間ほどでしょうか。
自身の読書もそこそこに、ずっと聞こえてくるお話を聞いておりましたが、ついにお二方が席を立たれるようでした。
そこで、聞き耳を立ててしまったことを一言謝ろうと、お声がけさせていただきました。
すると、親切に対応くださり、多少お話もしてくださいました。
普段は私立の学校で教壇に立たれているとのことで、なるほど話が分かりやすいわけです。
さらには、自著も1冊頂戴し、なんともありがたい体験をさせていただきました。
その時、お一人がおっしゃった言葉が、タイトルの『袖触れあうも他生の縁』です。
そのお言葉を聞いて、私のような若輩者が忘れがちな、「人生のゆとり」というものを感じていました。
あくまでも勝手に聞き耳を立ててしまったことなので、お話の内容は伏せようと思います。
ただ、先にも述べた通り、お二方とも大変レベルの高いお話をされており、私にはとてもためになるお話ばかりでした。
『学生時代、こんな先生に出会っていたら、歴史の面白さも分かったかもしれない』
心からそう思える、素敵なお二方でした。
それと同時に、自分の行動についても考えさせられました。
『私は、「先生」として、面白い「講義」をできているのだろうか』
お二方に比べると短いかもしれませんが、私もまた一種の「教育」に携わっている人間です。
お二方のような、『面白いと感じてもらえるお話』ができるようにありたいと思っています。
「面白い」、「楽しい」、そういう気持ちは、非常に重要なやる気の源泉です。
昨今の私は、実益を重視するばかりに、それらの気持ちをないがしろにしていたようにも思います。
あるいは、「IT」を、あまりにも道具として見すぎているのかもしれません。
そうは言っても、皆さんが求めるのは「実益」です。
もっと具体的に言うと、「収入」です。
今後も教育者として生きていくのであれば、このギャップを埋める「秘策」を持たなければなりません。
考えれば考えるほどに難しい。
それさえ分かれば、もっと効果的な指導ができるのに……。
まあ、そんな簡単に分かるなら、とっくに誰かが思いついているはずですけども。
それでは、タイトルの言葉の意味を間違えて覚えていた、山本慎一郎でした。